語り継ぐこころ/日本おとぎ噺・江戸小咄・古典落語・笑いの匠たち

日本おとぎ噺・江戸小咄、古典落語・笑いの匠たちのダイジェスト版と挿絵です。たまに、私の与太話が入ります。 文も挿絵もChatGPTが作っています。   よかったら ★nice! をポチット押してね。

「私の与太話」「減税」

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食料品の消費税を下げる話になると、反対論でよく聞くのが「国の税収が減る」「財政が悪化する」という話である。なるほど国の財布も大事だ。しかしスーパーで財布を開く私としては、国の赤字より先に、今日の米、魚、野菜の値段が目に入る。国の財政は何十兆円という話だが、こちらは百円、二百円の値上がりでも敏感である。



考えてみれば不思議なものだ。物価が上がれば「家計は節約してください」と言われる。一方、食料品の税金を少し軽くしようという話になると、「国の財政が心配だ」となる。家庭なら収入が足りなければ、まず無駄な支出を探す。「お父さんの小遣いを減らそう」となるのに、国ではなぜか「国民から取る分を減らして大丈夫か」が先に議論される。



もちろん国にも、年金、医療、介護、防衛、子育てと必要なお金は山ほどある。税金を減らせば、どこかで穴埋めしなければならない。だから減税なら何でも賛成というわけにはいかない。ただ、毎日必ず買う食料品くらいは、国の都合だけでなく、暮らす人の財布から考えてもいいのではないか。国民生活が苦しくなれば、結局は国の元気までなくなる。



国の財政を心配する専門家の話を聞きながら、私はスーパーのレジで今日も支払いをする。国には国債も予算編成もあるが、私の財布にはそんな便利な仕組みはない。足りなくなれば、その日は買うのをやめるだけである。だから食料品減税の議論を聞くたび思う。
「国の財布を心配してくれる人は大勢いる。――ところで、私の財布は誰が心配してくれるんだろう。」


88.日本おとぎ噺 「カジカのびょうぶ」

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むかし、伊豆の上狩野に、広い田畑や山を持つ菊三郎という男がいた。悪人ではなかったが大変な怠け者で、先祖の財産を次々と売り払い、とうとう最後の山まで手放そうとした。山の様子を見に入ると、杉木立の奥に澄んだ沢があり、美しい声で鳴くカジカたちが群れていた。歩き疲れた菊三郎は、大きな岩の上で眠り込んだ。



夢の中へ、全身を水に濡らした不思議な老人が現れた。老人はカジカたちの頭領で、「この山が売られれば沢を追われ、仲間は生きていけません。どうか、かじか沢だけは残してください」と涙ながらに頼んだ。目を覚ました菊三郎の手には、冷たい水が付いていた。沢に響くカジカの声を聞くうち、菊三郎は山を売らないと心に決めた。



菊三郎は山を守るため、家財道具をすべて売り、手元には何も描かれていない白い屏風だけが残った。ところが翌朝、屏風には美しい沢と杉林、楽しげに鳴くカジカたちが描かれていた。高値で買いたいという者が大勢訪れたが、菊三郎は決して売らなかった。それから心を入れ替えて懸命に働き、田畑を買い戻し、貧しい人々も助ける立派な主人となった。



長い年月が過ぎ、八十を越えた菊三郎は病の床に伏していた。そこへ殿様の家老が現れ、断る菊三郎を押しのけて屏風を持ち去ろうとした。その時、描かれていたカジカたちが次々と屏風から抜け出し、沢の方角へ帰っていった。屏風は元の白さに戻った。菊三郎は「長い間ありがとう。沢で仲よく暮らせよ」と微笑み、静かに息を引き取った。


『宮沢賢治・光と風の物語』第十七回「貝の火」第1話 子兎ホモイとひばりの親子/全4話

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春の野原で暮らす子兎ホモイは、やさしく素直な心を持つ子でした。ある日、草むらの近くで弱々しい鳴き声を聞き、足を止めます。見ると、小さなひばりの子が困っており、ホモイは放っておけず、そっと近づきました。



ホモイは、こわがるひばりの子を驚かせないよう気をつけながら、やさしく助けました。乱暴なことはせず、相手の命を大切にしようとする気持ちでいっぱいでした。ひばりの子はようやく落ち着き、空を見上げて親を呼ぶように鳴きました。



やがて親ひばりが飛んできて、無事なわが子の姿を見て安心します。そして、助けてくれたのがホモイだと知ると、深く感謝しました。親ひばりは、ホモイの親切でまっすぐな心をたたえ、この出来事をただのお礼では終わらせまいと考えます。



親ひばりは、ホモイの善い行いへの贈り物として、不思議な宝「貝の火」を授けました。その宝は、持ち主の心が正しければ美しく輝くといいます。ホモイは驚きながらも大切に受け取り、胸をときめかせました。こうして物語は、ふしぎな宝を得たホモイの新しい始まりへ続きます。


38.『江戸小咄』「尻端折(しりはしより)」

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江戸の裏長屋に住む与太郎は、着物の裾を引きずり、歩くたびに泥をはねる粗忽者。ある日、ご隠居が「与太、もう少し尻を端折って、しゃんと歩きな」と注意した。ところが与太郎は首をかしげ、「尻を端折るとは、尻を短くすることですかい」と尋ねる。ご隠居は笑いながら、着物の後ろ裾を帯へ挟む仕草を教えた。



ご隠居は笑いながら立ち上がり、着物の後ろ裾を少し持ち上げ、帯の間へきちんと挟んで見せた。「こうすれば裾を引きずらず、泥もはねない。上げすぎず、膝のあたりで加減するのが肝心だ」と教える。与太郎は何度もうなずきながら、ご隠居の仕草をまねる。しかし、分かったような顔をしているものの、肝心の“ほどよい加減”までは理解していなかった。



その姿を見た子どもたちは面白がり、古い手拭いや着物の裾を帯へ挟んで、「与太さんの尻端折だ」と行列を始めた。与太郎はいつの間にか先生にされ、「もっと高く端折れ」「走っても落とすな」と威張り出す。騒ぎを聞いたご隠居が駆けつけると、路地いっぱいに尻端折姿の子どもが並び、長屋は祭りのような騒ぎになっていた。



噂は町内へ広がり、商家の女将まで「与太さんが新しい粋を始めたそうですよ」と笑った。ご隠居が「端折るにも程がある。尻まで見せる奴があるか」と叱ると、与太郎は慌てて裾を下ろした。それでも周囲の笑い声を聞くと、照れ隠しに胸を張り、「江戸の流行は、少し先を行くくらいがよいので」と言い、また皆を笑わせた。


「私の与太話」「交通事情」

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テレビドラマを見ていたら、田舎の駅前で、旅人が地元の人に道を尋ねていた。

「この店まで、どのくらいですか」

地元の人は、ためらいもなく答えた。

「歩いて二十分くらいですよ」

私は思わずテレビに向かって言った。

「ありえない。田舎の人が二十分も歩くはずがない」



田舎では、近いか遠いかは歩く時間では決めない。車で何分かが基準である。五分でも車、三分でも車。荷物がなくても車で行く。歩道が立派でも車で行く。散歩は健康のためにするものだが、買い物のためには歩かない。目的ができた瞬間、足より先に車の鍵を探すのである。



以前、ホームセンターの真ん前に住んでいる人が、買い物へ車で出かけるのを見た。店の看板どころか、入口まで家から見えている。それでも車で道路へ出て、そのまま、駐車場へ入り、入口に一番近い場所を探す。そこが空いていないと、店の前を二周する。歩けば、とっくに着いている。



だから台本を書いている人は都会の人で、田舎の交通事情を知らないのだろう。田舎の人なら二十分くらい歩くだろうと想像したのだ。田舎では、駅の階段は歩いて上るのに、駅を出た途端、車を探す。入口が見えていても車で行く。

田舎の常識では、二十分歩く場所は――もう隣町である。