語り継ぐこころ/日本おとぎ噺・江戸小咄・古典落語・笑いの匠たち

日本おとぎ噺・江戸小咄、古典落語・笑いの匠たちのダイジェスト版と挿絵です。たまに、私の与太話が入ります。 文も挿絵もChatGPTが作っています。   よかったら ★nice! をポチット押してね。

19.『江戸小咄』「田舎者(いなかもの)」①

100えんメガネ

ある日の夕暮れ、江戸の町にひとりの田舎者がやって来た。
浅草から上野を回り、物見遊山に心を躍らせながら、粋な町人たちの行き交う姿にいちいち感心していた。
「江戸はなんと華やかなことか」と、彼は目を丸くして歩き回る。



ふと目に入ったのは、店先で職人が器用に飴細工を作る光景。田舎者は感嘆の声をあげる。
続いて立ち寄ったのは、香具師(やし)の口上に人だかりができる見世物小屋。そこでも手を叩いて笑っていた。
町の人々の早口にも驚き、露天の品の多さにも目を輝かせる。



「そっちは通らねぇでくだせぇ」「ちょいと、どいておくんな」――早口な江戸弁にあたふたする田舎者。
「こちとら、せっかちなんでぇ!」と怒鳴られ、すっかりしょげてしまう。
やがて、立ち寄った茶店でも「いらっしゃい!」と大声で迎えられ、腰を抜かさんばかりに飛び上がる始末。



「そっちは通らねぇでくだせぇ」「ちょいと、どいておくんな」――早口な江戸弁にあたふたする田舎者。
「こちとら、せっかちなんでぇ!」と怒鳴られ、すっかりしょげてしまう。
やがて、立ち寄った茶店でも「いらっしゃい!」と大声で迎えられ、腰を抜かさんばかりに飛び上がる始末。


「私の与太話」「世論調査」

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現代の世論調査とは、いったい誰に聞いているのだろう。電話、ネット、調査票の郵送、訪問調査。名を聞けばいろいろあるが、我が家には郵送も訪問も来たことがない。世論という大きな声の中に、我が家の声はどうも混じっていないらしい。



電話アンケートはたまに来るのかもしれないが、知らない番号は出ないことにしている。ネットアンケートも見た覚えがない。郵便受けにもそれらしい封筒はない。つまり、調査する側が避けているのか、こちらが避けているのか、どちらにしても縁がない。



それでテレビを見ると、「世論はこうです」と堂々と数字が出る。だが返事をする家、電話に出る人、ネットで答える人だけの声なら、ずいぶん偏っているのではないか。黙っている人、出ない人、面倒くさい人の世論は、どこへ行ったのだろう。



考えてみれば、我が家は調査票も来ず、訪問員も来ず、電話も無視し、ネットも見つけられない。これでは世論から完全に行方不明である。世間では「国民の声」と言うが、我が家だけは別扱い。落ちを申せば、世論調査にも留守番電話が必要だ。


43.日本おとぎ噺 「三枚のお札」

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ある山寺に、元気で少しやんちゃな小僧さんがいました。ある日、和尚さんから山へキノコ採りを頼まれた小僧は、「山には山姥(やまんば)がいるから気をつけなさい」と忠告されます。念のため、和尚さんは三枚のお札を渡し、「困ったときに唱えれば助けてくれる」と教えます。小僧は「へっちゃら!」と笑いながら山へ向かいました。



山でキノコを探していた小僧は、優しげなおばあさんに出会い、誘われるままに山奥の家へ。ごちそうを振る舞われ、うとうとしたところで、襖のすき間から見たのは――なんと山姥の正体。恐ろしい形相で、大釜を煮立て「小僧を煮て食ってやる」と言っているではありませんか! 小僧は慌てて逃げ出します。



山姥はものすごい速さで追いかけてきます。小僧は和尚からもらったお札を次々と使います。
一枚目を使えば、後ろに大きな川が現れて山姥の進行を妨げます。二枚目は火の海となり、山姥は焦げながらも突っ切ります。三枚目を使うと巨大な岩山が現れ、ついに山姥はこれを越えられず、小僧は寺まで逃げ延びるのです。



小僧は寺にたどり着き、和尚に抱きついて泣きました。和尚は優しく頭をなで、「よくぞ戻った」と褒めます。それ以来、小僧は和尚の言いつけを守るようになり、三枚のお札の話は村々に伝わっていきました。


「私の与太話」「よいとまけの歌」

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土木現場の朝。母は泥にまみれ、重い綱を引いて働いている。周囲の男たちに交じり、汗を流しながら、ただ一人の子を食べさせるために歯を食いしばる。掛け声は朝の空に響く。「エンヤーコーラ、エンヤーコーラ」。子どもはその姿を遠くから見て、恥ずかしさと寂しさを胸に抱く。



学校では、母の仕事をからかわれる。子どもは母の汚れた手や日に焼けた顔を思い出し、悔しさに黙り込む。だが家へ帰れば、母は何事もなかったように笑い、粗末な食卓を用意してくれる。その笑顔に、子は何も言えなくなる。土の匂いの残る母の手が、何より温かかった。



やがて子どもは成長し、世間に出る。苦しい時、負けそうな時、耳の奥によみがえるのは、母が働く現場の掛け声だった。「エンヤーコーラ、エンヤーコーラ」、泥の中で踏ん張る母の背中と、働く人々の力強い声。あの日恥ずかしいと思った記憶は、いつしか自分を支える誇りへと変わっていく。



母はもう若くない。子はようやく気づく。あの泥だらけの姿こそ、自分を育てた愛そのものだったのだと。貧しさも、からかいも、母の苦労も、すべては生きる力になった。今も心の奥で、あの ‟ヨイトマケの歌″ が聞こえる。子は静かに、母へ深い感謝を捧げる。


『粋の極み ・笑いの匠たち』16~18

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16.三遊亭円歌(さんゆうていえんか)「3代目」

生年月日昭和7年(1932年)1月10日

没年月日平成29年(2017年)4月23日

享年:85歳



三代目 三遊亭圓歌は、昭和7年(1932年)に東京・向島で生まれ、戦後の落語界を代表する名人の一人です。1945年に二代目三遊亭円歌に入門し、前座名「歌治」を名乗った後、二代目「三遊亭歌奴」を襲名。1958年には戦後入門者として初の真打ちに昇進しました。代表作『授業中』では、吃音を逆手に取ったユーモラスな語り口で人気を博し、テレビやラジオでも活躍。1970年に三代目「三遊亭圓歌」を襲名後は、『中沢家の人々』などの新作落語で高座を盛り上げました。また、1985年には日蓮宗で得度し、僧侶としての顔も持ちました。1996年から2006年まで落語協会会長を務め、落語界の発展に尽力しました。2017年に85歳で逝去されましたが、その功績と芸風は今も多くの人々に愛されています。



17.三遊亭円生(さんゆうていえんしょう)「6代目」

生年月日明治34年(1901年)10月12日

没年月日昭和54年(1979年)9月3日

享年:77歳



六代目・三遊亭円生(さんゆうてい えんしょう)は、昭和を代表する名人落語家の一人。元は講談師の家に生まれ、幼くして三遊亭円窓に入門、その後は多くの師匠を経て芸を磨き、昭和21年に六代目円生を襲名。滑稽噺から人情噺、怪談噺に至るまで幅広い演目を持ち、「名人芸」と称された。とりわけ『芝浜』『首提灯』『文七元結』などの人情噺では、情感豊かな語り口で多くの聴衆を魅了した。また、録音媒体を通じて昭和の名演を多く遺し、後世の落語家やファンにとっての“教科書”ともなっている。昭和54年、現役のまま逝去。落語界に残した功績は大きく、没後も「最後の名人」と称され続けている。



18.三遊亭圓楽(さんゆうていえんらく)「5代目」

生年月日昭和7年(1932年)12月29日

没年月日平成21年(2009年)10月29日

享年:76歳



五代目三遊亭圓楽(本名:吉河寛海)は、昭和7年(1932年)12月29日、東京都台東区浅草に生まれました。昭和30年(1955年)に六代目三遊亭圓生に入門し、三遊亭全生を名乗ります。昭和37年(1962年)に真打ちに昇進し、五代目三遊亭圓楽を襲名しました。昭和41年(1966年)から始まった日本テレビの演芸番組『笑点』に初回から出演し、昭和63年(1988年)から平成18年(2006年)まで司会を務め、番組の顔として親しまれました。また、昭和53年(1978年)には師匠の圓生と共に落語協会を脱退し、落語三遊協会を設立。その後、自身の一門を率いて「圓楽一門会」を結成し、後進の育成にも尽力しました。平成21年(2009年)10月29日、肺がんのため76歳で逝去されました。