語り継ぐこころ/日本おとぎ噺・江戸小咄・古典落語・笑いの匠たち

日本おとぎ噺・江戸小咄、古典落語・笑いの匠たちのダイジェスト版と挿絵です。たまに、私の与太話が入ります。 文も挿絵もChatGPTが作っています。   よかったら ★nice! をポチット押してね。

16.『江戸小咄』「医案(いあん)」

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長屋の裏手に住む与太郎、ある朝から腹が痛いと顔をしかめる。隣のご隠居が心配して見舞うと、「昨夜の豆腐が悪かったのかも」と与太郎。だが様子がどこか芝居がかっている。ご隠居、「お前、医者にかかったことはあるかい?」と問うと、「へぇ、なしでさぁ。医者は高ぇし、薬も苦ぇし」と苦笑い。



だが、痛みが引かぬと聞き、ご隠居は心配し、近くの町医者を紹介する。「あの先生は腕がいいし、なにより話が洒落てる」と。渋々ながら、与太郎は診てもらうことに。診察を終えて帰ってくると、「先生にゃ、腹より頭が問題だと言われやして」と神妙な面持ち。ご隠居、「それはまた、どういうことだ」と眉をひそめる。



与太郎曰く、「腹の具合は気のせい、むしろ頭が軽すぎるから世間が冷たく感じるのだと…」と、やや得意気に語る。ご隠居、笑いをこらえて「そりゃあ医案(いあん)どころか、妙案(みょうあん)だねぇ」と返す。だが、与太郎は深刻な様子で、「先生に言われたとおり、明日から“知恵を溜める湯治”にでも出やして…」と真顔。



その晩、ご隠居が再び覗くと、与太郎は頭に手拭を巻き、火鉢の前で「知恵が沸くのを待ってます」と真剣そのもの。ご隠居は苦笑しつつ、「そいつぁ湯治じゃなくて、ただの蒸し焼きだよ」と肩を叩いた。
――江戸の長屋には、病も薬も、そして笑いもまた、人情で効くものでござんす。


36.日本おとぎ噺 「しょじょ寺の狸ばやし」

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むかしむかし、武蔵の国に「しょうじょじ(証城寺)」という古いお寺がありました。ある秋の夜、和尚(おしょう)さんが一人、本堂で晩酌を楽しんでいました。夜も更け、虫の音が響く中、和尚はふと思いつき、「こんな夜に狸が踊りに来るという話があるが、どうせ迷信だろう」と笑って一人言をこぼしました。



そのとき、どこからともなく「ぽんぽこぽんぽこ」と腹鼓の音が聞こえてきました。和尚は酔いのせいかと思いましたが、耳を澄ますと確かに音が近づいてきます。やがて、音に合わせて笛や太鼓の調べまで聞こえ、寺の庭には、提灯をぶらさげた狸たちの行列が現れたのです。彼らはにぎやかに踊り、まるで祭りのように騒いでいました。



驚いた和尚でしたが、怖がるよりも「これは珍しい!」と面白がり、自らも笠をかぶって庭に出ていきます。そして狸たちの輪の中に加わり、一緒に踊り出したのです。狸たちは最初こそ驚きましたが、やがて打ち解け、和尚と楽しく踊り明かしました。宴は夜通し続き、笑い声と音楽が山中に響き渡りました。



夜が明けるころ、狸たちはふっと姿を消しました。和尚は夢でも見たのかと首をかしげつつも、心温まる夜だったと笑いました。それ以来、毎年秋になると、しょうじょじの森からは

「ぽんぽこぽん」と腹鼓の音が聞こえると人々は言います。それが「しょうじょじの狸ばやし」と呼ばれ、今でも語り継がれているのです。


『粋の極み ・笑いの匠たち』13~15

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13.古今亭今輔(ここんていいますけ)「6代目」

生年月日昭和45年(1970年)7月30日

没年月日 ご存命

2026年6月21日現在:満55歳



六代目 古今亭今輔(本名:水口直樹)は、昭和45年(1970年)7月30日生まれ、群馬県富岡市出身の落語家です。東海大学工学部卒業後、平成6年(1994年)12月に古今亭寿輔に入門し、「錦之輔」を名乗りました。平成10年(1998年)11月に二ツ目昇進、平成20年(2008年)5月に真打昇進と同時に六代目古今亭今輔を襲名しました。新作落語を中心に活動し、クイズ番組への出演経験もあります。2012年には国立演芸場花形演芸大賞銀賞を受賞し、落語芸術協会に所属しています。師匠の古今亭寿輔のもとで修行を積み、独自の芸風を築いています。


14.古今亭圓菊(ここんていえんぎく)「2代目」

生年月日昭和3年(1928年)4月29日

没年月日平成24年(2012年)10月13日

享年:84歳


二代目 古今亭圓菊は、静岡県島田市出身の落語家で、本名は藤原淑(ふじわら しゅく)です。昭和28年(1953年)に五代目古今亭志ん生に入門し、前座名「生次」として修行を始めました。その後、「むかし家今松」を経て、昭和41年(1966年)に真打昇進と同時に「二代目古今亭圓菊」を襲名しました。彼は、体をよじるコミカルな仕草と独特の口調「圓菊節」で人気を博し、「寄席の爆笑王」と称されました。また、手話落語を考案し、耳の不自由な方々への慰問活動を行うなど、社会貢献にも尽力しました。平成24年(2012年)に多臓器不全のため84歳で逝去されました。


15.三遊亭圓丈(さんゆうていえんじょう)

生年月日昭和19年(1944年)12月10日

没年月日令和3年(2021年)11月30日

享年:76歳



三遊亭圓丈師匠(本名:大角弘)は、愛知県名古屋市出身の落語家で、昭和39年(1964年)に六代目三遊亭圓生に入門し、「ぬう生」を名乗りました。昭和53年(1978年)に真打昇進と同時に「圓丈」を襲名し、以後、新作落語の旗手として活躍されました。代表作には『グリコ少年』や『悲しみは埼玉に向けて』などがあり、現代的なテーマを取り入れた斬新な作品で知られています。また、渋谷ジァン・ジァンでの「実験落語」など、新たな試みにも積極的に取り組みました。その影響は、春風亭昇太や柳家喬太郎などの後進にも及び、「圓丈チルドレン」と称される弟子たちが活躍しています。2021年11月30日、心不全のため76歳で逝去されました。

(5.)「私の与太話」「ロープウエイ」

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山の上からロープウェイを眺めていた私は、ふと疑問に思いました。

「こんな太くて重いロープ、いったい最初にどうやって向こう側へ渡したんだろう?」

谷をまたぐロープウェイも、急斜面を登るケーブルカーも、最初から太い鋼索が空中に浮いていたはずはありません。まるで空中に橋を架けるような仕事です。子どもの頃は「ヘリコプターで運んだのかな」と思っていましたが、実際にはもっと地道な方法から始まるそうです。



工事では、まず細い糸やロープを向こう側へ渡します。

昔なら人が運んだり、弓矢で飛ばしたりした例もありました。現在ではドローンやヘリコプターが活躍します。

そして、その細い糸で少し太いロープを引き、さらにそのロープでもっと太いロープを引くという作業を繰り返します。

まるで釣り糸で縄を引き、縄で綱を引くようなものです。

こうして最終的には数十トンもある本物の鋼索が山を越えて張られるのです。



次に気になったのは、

「何キロもあるロープをどうやってつなぐのか?」

ということでした。

実は鋼索は「スプライス」という特殊な方法で接続されます。

ロープを構成する鋼線を一本ずつほどき、互いに編み込むようにつないでいくのです。

さらにロープウェイでは端と端をつないで大きな輪にします。

そして駅舎の中にある巨大な重りや油圧装置で常に引っ張り続けます。夏の暑さや冬の寒さでロープが伸び縮みしても、適切な張り具合が保たれる仕組みです。



ロープウェイやケーブルカーの鋼索は、最初から空中に渡されるわけではありません。

一本の細い糸から始まり、少しずつ太いロープへと交換され、最後に巨大な鋼索となって山や谷を結びます。

考えてみれば、人類の大きな仕事はみな同じかもしれません。

橋も、鉄道も、ビルも、最初は小さな一歩から始まります。

ロープウェイの太い鋼索を見上げるたびに、「あれも最初は一本の細い糸だったんだな」と思うと、技術者たちの知恵と根気に感心せずにはいられません。まさに「千里の道も一本の糸から」――そんな気持ちになる話でした。


35.日本おとぎ噺 「養老の滝(ようろうのたき)」

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むかし、美濃の国(現在の岐阜県)に、親思いの若者が住んでいた。父は病で寝たきりとなり、働けなくなっていたが、息子は文句も言わず、山で薪をとり、貧しいながらも二人で慎ましく暮らしていた。
ある日、息子はいつものように山へ入ると、森の奥から不思議な香りがただよってきた。不思議に思って近づくと、岩の間から清らかな滝が流れており、あたりには甘い香りが立ちこめていた。



滝の水をすくって飲んでみると、なんとそれは甘い酒のような味がした。驚いた若者は、ひと瓶分を汲んで家へ持ち帰り、父に飲ませた。すると父の顔色が見る間に良くなり、日を追うごとに病が癒えていった。
このことは村中の評判となり、「あの山には霊水が湧いている」と噂が広がった。



やがてその話は天皇の耳にも届き、都から使者がやってきた。使者は滝の水を持ち帰り、天皇にも献上された。天皇は感激し、「これはまさしく親孝行の心が神に通じた証である」と述べ、滝のある山を「養老山(ようろうさん)」と名づけ、滝を「養老の滝」と呼ぶよう命じた。
さらに、若者の孝行を讃える詔(みことのり)も出されたという。



その後、「養老の滝」は親孝行の象徴として人々に大切にされ、訪れる人々は皆、滝の水を見て心を清めたという。滝はいまも変わらず、静かに山奥で流れ続けている。
――親を思う心、それは神仏さえも動かす力を持っているのだと、人々は語り継いでいる。