語り継ぐこころ/日本おとぎ噺・江戸小咄・古典落語・笑いの匠たち

日本おとぎ噺・江戸小咄、古典落語・笑いの匠たちのダイジェスト版と挿絵です。たまに、私の与太話が入ります。 文も挿絵もChatGPTが作っています。   よかったら ★nice! をポチット押してね。

35.日本おとぎ噺 「養老の滝(ようろうのたき)」

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むかし、美濃の国(現在の岐阜県)に、親思いの若者が住んでいた。父は病で寝たきりとなり、働けなくなっていたが、息子は文句も言わず、山で薪をとり、貧しいながらも二人で慎ましく暮らしていた。
ある日、息子はいつものように山へ入ると、森の奥から不思議な香りがただよってきた。不思議に思って近づくと、岩の間から清らかな滝が流れており、あたりには甘い香りが立ちこめていた。



滝の水をすくって飲んでみると、なんとそれは甘い酒のような味がした。驚いた若者は、ひと瓶分を汲んで家へ持ち帰り、父に飲ませた。すると父の顔色が見る間に良くなり、日を追うごとに病が癒えていった。
このことは村中の評判となり、「あの山には霊水が湧いている」と噂が広がった。



やがてその話は天皇の耳にも届き、都から使者がやってきた。使者は滝の水を持ち帰り、天皇にも献上された。天皇は感激し、「これはまさしく親孝行の心が神に通じた証である」と述べ、滝のある山を「養老山(ようろうさん)」と名づけ、滝を「養老の滝」と呼ぶよう命じた。
さらに、若者の孝行を讃える詔(みことのり)も出されたという。



その後、「養老の滝」は親孝行の象徴として人々に大切にされ、訪れる人々は皆、滝の水を見て心を清めたという。滝はいまも変わらず、静かに山奥で流れ続けている。
――親を思う心、それは神仏さえも動かす力を持っているのだと、人々は語り継いでいる。


15.『古典落語』「子別れ(こわかれ)」

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八五郎は、酒に溺れては家に金も入れず、博打と喧嘩に明け暮れる日々。ついには堪忍袋の緒が切れた女房、おたかが三行半を突きつけ、幼い息子・亀吉を連れて実家へ帰ってしまう。「出てけ!」と言われたときの八っつぁんの負け惜しみと空元気、しかしその実、胸の奥ではポッカリと大きな穴が開いたような淋しさを感じていた。



それからというもの、八五郎は心を入れ替える。酒も博打も絶ち、日雇いの仕事をこなしながら真面目に生きる日々。時折、町で見かける親子連れに胸を締めつけられ、「あいつは元気でやってるか」と思いを馳せる。ある日、偶然立ち寄った団子屋で、見覚えのある少年が目の前に。まぎれもなく、亀吉だった。息子の姿に、八っつぁんの目は思わず潤む。



団子を奢ってやると、亀吉は無邪気に笑い、父を「おとっつぁん」と呼ぶ。時の流れはあれど、親子の絆は消えてはいなかった。話の中で、亀吉が「母さんも、おとっつぁんのこと、悪くは言ってなかったよ」と漏らす。八っつぁん、胸を突かれながらも「今の俺なら、きっともう一度やり直せる」と小さくつぶやく。その言葉が、空にゆるりと浮かぶ凧のように、希望を含んでいた。



後日、おたかのもとを訪ね、頭を下げる八五郎。最初は戸惑うおたかだったが、今の八五郎の真摯な姿を見て、ふと表情が和らぐ。「亀吉のために…もう一度、一緒に暮らしてみようかね」。涙ぐむ八五郎は、そっと息子の小さな手を握る。江戸の町には、夕焼けとともに親子三人の影が寄り添って伸びていく――。


「私の与太話」「約束」

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「約束はした。でも、約束を守る約束はしていない。」


私はニュースを見ながら首をかしげた。
トランプ氏はこれまで「終わりのない戦争を終わらせる」「新しい戦争は始めない」と何度も語ってきたはずだ。ところが最近は「私は戦争をしないと約束したことはない」と言う。どうやら政治の世界では、言葉にも賞味期限があるらしい。



考えてみれば、戦争を終わらせる方法はいろいろある。停戦しただけで「終わった」と言うこともできるし、「私は提案したが相手が悪い」と説明することもできる。さらに「戦争を終わらせる」から「被害を減らした」へ目標を変えれば、それも成果になる。政治とは便利なもので、ゴールが動く競走のようだ。



そんなことを考えていたら、妻が横で言った。
「政治家の約束なんて、昔からそんなものでしょ」
確かに私は七十八年生きてきて、公約が契約書になった場面をあまり見たことがない。守ったと言う人もいれば、守られたと言う人もいる。結局は説明のうまさと受け取り方次第なのだろう。



私は妙に感心してしまった。
戦争が終わるかどうかより先に、約束の意味のほうが変わっていたのである。
どうやら政治家の約束は「守るもの」ではなく、後で「解釈するもの」らしい。
契約書なら困るが、公約だから拍手が起きる。これぞ政治の不思議である。


34.日本おとぎ噺 「ちょうふく山の山んば」

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昔、ちょうふく山のふもとの村に、あるおばあさんが住んでいました。ある日、町へ織った布を売りに行こうと山道を越えていると、山の途中で突然天気が悪くなり、雷雨に見舞われます。困ったおばあさんが雨宿りできる場所を探していると、奥深い林の中に一軒の古びた家を見つけます。そこで「もしや……山んばの家では」とおびえながらも、雨をしのぐために中へと入っていきます。


家の中には年老いた女が一人いて、「まあまあ、濡れてかわいそうに」と優しく迎えてくれました。おばあさんは安堵し、囲炉裏のそばで体を温めながら、持っていた布を広げて見せます。すると女は「なんと綺麗な布じゃ、わしが買おう」と言って、布を受け取り、代金にと一つの袋を渡します。おばあさんは喜び、雨も止んだので山を下りて帰りました。けれども、袋の中身を見ると中には落ち葉しか入っておらず、「ああ、やはりあれは山んばだったか」と気づきます。


数日後、別の村人が「山んばに会ってみたいものだ」と言って同じ山道を登っていきます。やがて例の古家にたどり着き、中に入ると老婆が現れ、やはり親切に迎えてくれます。だが村人は興味本位で「お山の山んばじゃろう?」と口にしてしまいます。すると老婆の顔がにわかに恐ろしい形相に変わり、声を荒らげ「正体を見破ったな!」と怒り出しました。山んばは巨大な姿に変わり、村人を追いかけ始めます。


村人は必死に山を駆け下り、途中で転びながらも、なんとかふもとの村へ逃げ帰ります。後ろを見れば、もう山んばの姿は見えませんでした。それ以来、ちょうふく山には誰も近づかなくなり、「あの山には山んばが住んでいる」と語り継がれるようになったのです。けれど、布を買ってくれたことを思えば、決して悪い者でもなかったのかもしれない――そんな噂も、どこかで囁かれているのでした。

15.『江戸小咄』「蜜柑(みかん)」

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ある冬の日のこと。貧しい長屋に住む八五郎(はちごろう)、体調を崩した幼い娘のために何か滋養のあるものをと、町中を歩き回る。寒空の下、売り声が聞こえてきた。「みかん、みかん〜」と威勢のいい声。娘が蜜柑を食べたがっていたのを思い出し、懐の小銭を握りしめて、八百屋の露店に立ち寄る。



だが、手持ちの銭では蜜柑が三つしか買えない。八五郎は困りながらも、八百屋にこう頼む。「すまねえが、皮だけ五つ分くれねえか」。娘には蜜柑を三つ、皮は五つに見せれば、きっと喜ぶだろうと考えたのだ。八百屋は一瞬きょとんとするも、訳を聞いて感心し、「よしきた、皮は好きなだけ持っていきな」と笑って渡す。



八五郎、蜜柑をそっと風呂敷に包み、長屋へ帰る。娘は寝床の中で目を輝かせ、「お父っつぁん、蜜柑の匂いがする」と嬉しそうに起き上がる。蜜柑三つを見て、「こんなにたくさん!」と大喜び。皮も添えてやれば、部屋中に爽やかな香りが広がる。貧しい暮らしの中にも、ほんのりとした幸せが満ちたひととき。



夜更け、隣の長屋のご隠居が様子を見に来て、蜜柑の匂いに気づく。「おや、贅沢だねぇ」と茶化せば、八五郎は頭をかきながら「いや、皮の方が多うござんして」と笑う。ご隠居は目を細めて、「粋な親バカだねぇ」と呟いた。――江戸の冬、貧しくとも心はあたたかい。蜜柑の香が、町にそっと福を運んでいた。