語り継ぐこころ/日本おとぎ噺・江戸小咄・古典落語・笑いの匠たち

日本おとぎ噺・江戸小咄、古典落語・笑いの匠たちのダイジェスト版と挿絵です。たまに、私の与太話が入ります。 文も挿絵もChatGPTが作っています。   よかったら ★nice! をポチット押してね。

56.日本おとぎ噺 「乞食のくれた手ぬぐい(こじきのくれたてぬぐい)」

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昔、ある村の金持ちの男が、峠道の茶屋で休んでいた。そこへ旅の途中らしき一人の乞食が現れ、「何か食べ物を恵んでくだされ」と頼んだ。男は最初無視しようとしたが、乞食の態度があまりにも丁寧で、言葉も穏やかだったため、つい握り飯を一つ与えた。乞食は深く礼を言い、代わりに一枚の手ぬぐいを差し出した。「この手ぬぐい、ただの布ではございません。困ったときにお使いなされ」と。



男は内心「布切れ一枚で礼とは妙なことよ」と笑ったが、懐にしまい、再び旅を続けた。ところがある夜、峠を越えた先の宿で賊に襲われ、持ち物をすべて奪われてしまう。命からがら山中に逃げ込み、絶望していると、ふと手ぬぐいのことを思い出す。何気なくそれを取り出し、「助けてくれ」とつぶやいた。



すると、どこからともなく風が起こり、手ぬぐいが光りだした。次の瞬間、目の前に立派な屋敷が現れた。男が中に入ると、食事や衣類、休む部屋まで何もかもが整っていた。「これは夢か幻か……」と疑う間もなく、男は一夜を過ごした。朝になると屋敷は跡形もなく消え、ただ野原の真ん中に立っていた。だが、懐には金と食料が残っていた。



男は村に戻り、手ぬぐいの不思議を人々に語った。それからというもの、あの乞食の姿を見た者はいない。男は分け与えの心を忘れず、富んだのちも施しを欠かさぬようになった。あのときの一枚の手ぬぐいが、彼の人生を変えたのだった。


24.『古典落語』「浮世床(うきよどこ)」

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ここは江戸の町角にある、なじみの床屋「浮世床」。町人たちが、髪を整えに来るというより、むしろおしゃべりに来るのが目当て。今日も店には長屋の連中が三々五々集まり、床几(しょうぎ)に腰かけては、世間話や与太話に花を咲かせている。季節は春、外はうららか、店の中にもぽかぽかと陽が差し込む。髷(まげ)を結いながら、客の一人がぽつりと「このごろ、本を読んでおりましてな……」と切り出した。



「本? おまえさんがか?」と、皆が顔を見合わせる。「いやいや、そんな柄じゃないよ」と冷やかす中、「これがなかなか面白くてな」と、その男は自信満々に続ける。「昨晩もな、あの源平合戦のくだりで、義経が……」と語りだすが、どうにも話があやふや。「それって忠臣蔵と違うか?」と誰かが突っ込むと、「あれ? そうだったかの……」とタジタジになる様に、店内は爆笑。知ったかぶりの哀れと滑稽が、床屋の空気を和やかにする。



別の日、また同じ床屋で、「こないだ夢を見たんだが……」と話す男が登場。「夢でな、吉原の大店の若旦那になってな。格子戸の向こうに、美しい太夫が現れて……」と身を乗り出して語るが、その様子が妙に生々しく、現実味がない。聞いていた連中から「それ、本当に夢か? どっかで現(うつつ)に行ってんじゃねえか」と冷やかされ、「いや、夢だ、夢に決まってる!」と慌てる様がまた笑いを誘う。



こうして今日も「浮世床」は笑いと噂話に包まれ、江戸の一日が過ぎていく。立派な話でもなく、奇抜な事件でもない。ただ、江戸の男たちが床屋で他愛のない話を重ね、間の抜けた一言に皆が腹を抱える――そんな日常のひとこまが、実に滑稽で、どこか愛おしい。浮世の憂さも、髷と一緒にすっきりと。風がそよぎ、団扇が揺れる、春の江戸の床屋風景であった。


55.日本おとぎ噺 「キジも鳴かずば(きじもなかずば)」

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むかしある山里に、まじめで働き者の男が暮らしていた。ある日、山で薪をとっていると、何とも言えぬ悲しげな鳥の声が聞こえてきた。不思議に思って声の方へ行くと、木の枝に傷ついた一羽のキジが鳴いていた。男は哀れに思い、自分のむすび飯をちぎって与え、やさしく手当てをしてやった。



翌日、男が山へ行くと、なんと前日と同じ場所で、山菜やきのこ、魚がきれいに揃えられて置かれていた。男は不思議に思いながらもありがたく持ち帰った。それからも毎日、同じように山の恵みが置かれていた。村人たちは「山の神様の恩返しじゃ」と噂し、男はますます感謝の心を忘れず、静かに暮らしていた。



この話を聞きつけた欲深な隣村の男が、「それならわしも」と真似をし、無理やりキジを捕まえてけがをさせ、「助けてやったぞ」と餌を投げつけた。しかし次の日、山には何もなく、逆に男の持ち物がどんどん失われていくようになった。やがて男は「キジが鳴いたせいで、山の神に知られてしまった」と言って、キジを逆恨みするようになった。



結局、悪人の男は村からも追われ、みすぼらしい姿で山をさまようようになった。山の神の怒りを買ったのだと村人たちは語り継ぎ、**「キジも鳴かずば撃たれまい」**ということわざが生まれた。だが、キジは鳴くしかなかったのだ。善を尽くす者には恵みが、欲に駆られた者には罰が下る――そうして村人は今も山に感謝しながら暮らしているという。


24.『江戸小咄』「屁(へ)」

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長屋に住む若い男・与太郎(よたろう)、ある日ご隠居の家で手伝いをしていた最中、不意に大きな音を立てて屁をこいてしまった。
その場にはご隠居と近所の町人がいて、空気が一瞬ピリつく。顔を赤らめた与太郎は、あわてて言い訳を口にする。

「い、いまのは畳の鳴った音で……」と、とっさにごまかす与太郎。だが、ご隠居は眉をひそめて、「ならば畳を表に出して謝らせな」と冗談めかして返す。
居合わせた町人たちはくすくすと笑い始め、やがて部屋に笑いが広がる。与太郎はますます困り顔。

それでも懲りない与太郎、「あっしの屁は音だけで、匂いはござんせん」と強がると、今度はご隠居がちゃぶ台を叩いて笑い転げる。
「そいつは立派だ、まるで三味線の稽古じゃねぇか。音だけで芸があるとはな」と一言。
与太郎もつられて笑い出し、いつの間にか場は和やかに。

その後、与太郎は屁の芸(!?)でちょっとした人気者に。
長屋の子どもたちからは「ぷー太郎」とあだ名までつけられ、「屁こき節」なる替え歌も登場する始末。
――江戸の町では、屁一つでも笑いと人情が花開く。洒落と寛容が息づく日々でござんした。

54.日本おとぎ噺 「湖の怪魚(みづうみのかいぎょ)」

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昔、ある村の近くに大きな湖がありました。村人たちはその湖を「神の池」と呼び、決してむやみに入ったり魚を取ったりしませんでした。というのも、昔から「湖には怪しい大魚が住んでいて、人を引きずり込む」という話があったからです。湖に近づいた牛が消えたり、舟が沈んだりする不思議が度々起こり、誰もが湖を恐れていました。



ある日、村の若者の一人が「本当にそんな怪魚がいるのか見てやる」と言い出し、小舟で湖に漕ぎ出してしまいます。村人は止めようとしますが、若者は意気揚々と網を持って湖の真ん中へ。しかし、しばらくすると湖面が急に波立ち、舟が転覆。若者は行方不明となり、網だけが岸に流れ着きました。村中に恐怖が走り、「やはり怪魚は実在する」との噂がさらに広まります。



この出来事を聞きつけた一人の旅の老僧が村に現れ、「その魚は昔、この地で無念に死んだ者の怨念が化けたものだろう」と語ります。そして村人たちに仏具と経文を借り、湖のほとりで供養を始めました。老僧は何日も読経を続け、湖に向かって手を合わせると、ある晩、湖から不気味なうなり声とともに大波が起き、夜が明けると湖の水は静まり返っていました。



それ以来、湖では不思議な現象が一切起こらなくなり、村人たちも再び湖の水を使ったり、魚を取ったりできるようになりました。老僧は静かに村を去り、村人たちは「湖の主も成仏されたのだ」と手を合わせるようになりました。今でもその湖には祠が建てられ、村人たちは感謝と恐れを込めて供え物を続けているということです。