語り継ぐこころ/日本おとぎ噺・江戸小咄・古典落語・笑いの匠たち

日本おとぎ噺・江戸小咄、古典落語・笑いの匠たちのダイジェスト版と挿絵です。たまに、私の与太話が入ります。 文も挿絵もChatGPTが作っています。   よかったら ★nice! をポチット押してね。

16.『日本おとぎ噺』 「天福地福」

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昔むかし、ある山里に「天福(てんぷく)」という名の、やさしく気立てのよい男が住んでおった。天福は貧しいながらも正直者で、山の薪を拾っては町で売り、母とふたりでつましく暮らしていた。ある日、山道で迷った旅の僧に出会い、持っていた団子を差し出し、道案内までしてやった。僧は深く感謝し、「よいことがあるじゃろう」と意味深に笑って去っていった。

その夜、天福の夢枕に白髪の老人が立ち、「そなたの徳を見て、福を授ける。目覚めたら枕元を見よ」と告げた。目を覚ますと、そこには見慣れぬ小判が一枚。そして不思議なことに、その後も正直に人助けをするたびに、小判が一枚ずつ現れるようになった。天福は欲張ることなく、人々に分け与えながら慎ましく暮らしていた。

この噂を聞きつけたのが、「地福(ちふく)」という男。天福の隣村に住む男で、欲深くずる賢い性格だった。地福は「自分も同じことをすれば小判が出るに違いない」と考え、わざと僧に施しをしたり、大げさに人助けを演じてみせた。しかし、枕元に小判が現れることはなかった。腹を立てた地福は、天福の家に忍び込もうとする。

しかし地福は、天福の母が一人で留守番しているところに忍び込み、足を滑らせて薪に頭をぶつけ、気絶してしまう。帰宅した天福は驚き、けがの手当てをし、夜通し看病した。目を覚ました地福は、自分の愚かさと天福のやさしさに涙し、改心する。「福とは金じゃない、人の心じゃ」と天福は言い、二人は笑い合った。やがて地福も、正直に生きて小さな幸せを得ていったという。

7.『江戸小咄』「盗人(ぬすっと)」①

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夜も更け、長屋の一軒に泥棒が忍び込んだ。家主は目を覚ますが、寝たふりをして様子を窺う。部屋の隅でごそごそ音がする。「さて、何を盗ってゆくやら」と心で思いながら、家主はそっと耳を澄ませる。

ところが、盗人は戸棚や箪笥を探っても、何も見つからぬ様子。ため息まじりに「こりゃ貧乏長屋もいいとこだ」とぼやく声が聞こえる。家主は内心、少し恥ずかしく思いながらも、つい意地が湧いてくる。

やがて盗人、「仕方ねえ、帰るか……」と呟いた。すると布団の中から家主が顔を出し、「ちょいと待ちな、せっかく来たんだ、茶でも飲んでけ」と言う。盗人は仰天するが、家主はにっこり笑い、「金目のものはねぇが、人情なら残ってる」と声をかける。

驚きと戸惑いの中、盗人は茶を受け取る。「あんた、いい人だな」と呟きつつ、静かに頭を下げて出ていった。翌朝、家主は隣人に語る。「昨夜の客は何も盗らずに、人情を一つ置いてったよ」。江戸の夜は、そんな粋な気配に包まれていた――。

15.『日本おとぎ噺 』「カチカチ山」

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むかしむかし、ある山里に心優しいおじいさんとおばあさんが住んでいました。
ある日、おじいさんは畑を荒らすタヌキを捕まえます。「悪さばかりするんじゃない」と注意し、家へ持ち帰ります。
おじいさんはタヌキを縄で縛り、「後で山へ返してやろう」と言い残して山仕事へ向かいます。

ところがタヌキは油断したおばあさんをだまして逃げ出します。おばあさんは驚き、おじいさんも悲しみます。
それを見たのが、仲良しのウサギ。おじいさんに寄り添い、「私がタヌキにおしおきをします」と言います。
ウサギは知恵をめぐらせ、タヌキにいくつかの“いたずら”で仕返しを始めます。

ウサギは薪拾いに誘い、帰り道で山火事を装ってタヌキを驚かせたり、トゲの葉っぱの上を歩かせたりと、次々に仕掛けます。
最後には、川渡りを提案し、タヌキに「泥で舟を作るといいよ」と言って、ウサギ自身は丈夫な木の舟を用意します。
二人は川へこぎ出します。タヌキの舟は少しずつ溶け始めます。

泥の舟はついに沈みそうになります。ウサギが近づき、「こらしめはこれまで」と手を差し伸べます。
タヌキは泣いて謝り、「もう悪さはしないよ」と約束します。
おじいさんとおばあさんのもとに戻ったウサギは、すべてを話し、三人で笑い合います。
そしてタヌキも、山で真面目に暮らすようになったそうな──。

『粋の極み ・笑いの匠たち』4~6

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4.桂三木助(かつらみきすけ)「3代目」

生年月日:大正12年(1923年)7月9日

没年月日:昭和58年(1983年)1月14日

享年:59歳

三代目桂三木助(かつら みきすけ)は、東京出身の名人落語家で、江戸落語の正統を継ぐ実力派。初代三木助の孫弟子で、五代目古今亭志ん生に入門、のちに三代目三木助を襲名した。端正な語り口と写実的な描写で、人情噺を得意とし、「芝浜」「居残り佐平次」「井戸の茶碗」などで高い評価を受けた。舞台姿も品があり、都会的なセンスと古典の風格を併せ

持つ名演で知られる。テレビやラジオにも積極的に出演し、落語の大衆化にも貢献。惜しまれながら59歳で早世したが、その演技と語りは今なお多くのファンの心に刻まれている。


5.桂文枝(かつらぶんし)「5代目」

生年月日:昭和5年(1930年)4月12日

没年月日:平成17年(2005年)3月12日

享年:74歳

五代目 桂文枝(本名:長谷川多持)は、昭和の上方落語界を代表する名人の一人であり、六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、三代目桂春團治とともに「上方落語四天王」と称されました。昭和22年(1947年)に四代目桂文枝に入門し、三代目桂小文枝を経て、平成4年(1992年)に五代目桂文枝を襲名。音曲を取り入れた「はめもの」や、女性を主人公とする演目で高い評価を受け、「立ち切れ線香」「船弁慶」などが代表作です。また、上方落語協会の会長として後進の育成にも尽力し、桂三枝(現・六代目桂文枝)や桂文珍ら多くの人気落語家を輩出しました。その功績により、上方落語の復興と発展に大きく貢献しました。


6.桂文治(かつらぶんじ)「10代目」

生年月日:大正13年(1924年)1月14日

没年月日:平成16年(1983年)1月31日

享年:80歳

十代目 桂文治(本名:関口達雄)は、大正13年(1924年)に東京都豊島区で生まれ、初代柳家蝠丸を父に持つ落語家です。戦後の昭和21年(1946年)に二代目桂小文治に入門し、柳家小よしを名乗った後、桂小よし、桂伸治と改名し、昭和33年(1958年)に真打昇進。昭和54年(1979年)に十代目桂文治を襲名し、桂派宗家となりました。彼の芸風は、正調の江戸弁を大切にし、滑稽噺を得意とする自由闊達なもので、「掛取り」「源平盛衰記」「親子酒」などの演目で知られています。また、南画家としても活動し、雅号「籬風」で知られ、書道や盆栽にも精通する多才な人物でした。平成11年(1999年)には落語芸術協会会長に就任し、平成14年(2002年)には勲四等旭日小綬章を受章。平成16年(2004年)に急性白血病のため80歳で逝去しました。

14.『日本おとぎ噺 』「三年寝太郎」

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むかしむかし、とある村に働かずに三年もの間、寝続けている若者がいた。「寝太郎(ねたろう)」と呼ばれるその男は、毎日ひたすら布団の中でゴロゴロしているだけ。村人たちは「あれじゃ、何の役にも立たん」と呆れ果てていた。働き者の親も心配したが、寝太郎はただニコニコ笑って眠り続けるばかりで、起きる気配すらないのだった。

「三年が経ったある日、寝太郎はふいにむくりと起き上がり、「さて、そろそろ働くかのう」とつぶやいた。村人たちは驚き、呆気にとられた。寝太郎はすぐさま村の浜へ向かい、大勢の若者たちに声をかけると、太い綱や丸太、木橇(きぞり)を集めさせた。そして自ら先頭に立ち、山へと向かっていく。誰もが「何をする気だ」と訝しんだが、寝太郎はまっすぐ山の中腹にある大岩の前へたどり着くと、「よっこらせ」と声を張り上げ、巨大な岩を動かし始めた。」

寝太郎が動かした岩の下からは、こんこんと清らかな水が湧き出し、小川となって山を下っていった。実は、この岩が水の流れを塞いでいたのだ。この水は村まで流れつき、長らく干ばつに苦しんでいた村に潤いをもたらした。田畑は蘇り、稲もよく育ち、村人たちは大いに喜んだ。「あの寝太郎が、村を救ったとは…」と、人々の見る目が一変した。

その後、寝太郎は元の布団に戻ることなく、村の発展に尽力したという。人々は彼を「大寝太郎様」と呼び、感謝しながら敬意をもって接した。寝太郎の三年の眠りには、きっと大きな意味があったのだろう。――やがてこの村は豊かな水と田畑に恵まれ、繁栄していったそうな。