30.『古典落語』「夢の酒(ゆめのさけ)」
江戸のとある長屋に住む男がいた。酒好きで知られ、朝から晩まで飲んでは寝て、寝ては飲む暮らし。ところが、ある日を境にぴたりと酒を断ち、何やら神妙な面持ちで暮らすようになる。隣人や大家も驚き、「どうしたんだい、急に人が変わったように」と問いただすと、男はぽつりと語る。
「実はな、妙な夢を見たんだ。夢の中で、見たこともない立派な屋敷に通されて、美しい女中たちが次々と酒をついでくれてな……。そりゃあもう、極楽のような心地だった」
だが夢の中の酒は、あまりに美味すぎて、目が覚めたときに現実の酒が色褪せて感じてしまったという。それ以来、酒を口にする気が起きないのだと。

男の話に、長屋の連中は呆れたり、感心したり。「夢に酔ったとは粋な話だ」と噂になる。だが日が経つにつれ、男の様子がおかしくなる。日がな一日、ぼんやりと縁側で空を見上げ、「また、あの夢が見たい……」とつぶやくばかり。食も細くなり、やせ細っていく。
心配した大家が、「せめて医者にでも診てもらったらどうだ」と言えば、「医者にかかって夢が見られるものかい」と笑い飛ばす。だがその目には、どこか狂気じみた光が宿っていた。
しまいには、「今夜こそ、あの夢を……」と言い残し、布団に入ったまま目を覚まさなくなる。ああ、これは夢に魂を取られたのだ、と長屋中がざわつく。

ところが、翌朝ふらりと男が起き上がってくるではないか。しかも顔には満面の笑み。「とうとう、あの夢の続きを見たんだよ」と語る。
「また屋敷に通されてな。女中たちが『お待ちしておりました』って。今夜は特別な酒がございます、ってな……」
皆が「よかったなあ、夢が戻ってきて」と祝福する中、男は急に真顔になって言う。「でもな、夢の中で一つだけ困ったことがあったんだ」
「なんだい?」
「勘定を渡されたんだよ。しかも、えらく高くてな……。夢の中だからって、タダ酒じゃなかったらしい」

夢の中での勘定を払えず困っていたところ、女中たちが口々に「では、現実に戻って稼いでからまたいらしてください」と言ったという。それを聞いて目が覚めた男は、ふっと笑いながら立ち上がる。
「というわけで、これから真面目に働くよ。夢の酒をまた呑むためにな」
こうして、夢に導かれ、現実を変えた男の噺は、長屋で語り草となった。江戸の粋とユーモアが染みる、まさに“夢のような”一席である。

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