『宮沢賢治の詩と心象風景』第五回 「青森挽歌Ⅲ 死後の妹を探す 」
【原文】
ほんたうにその夢の中のひとくさりは
かん護とかなしみとにつかれて睡つてゐた
おしげ子たちのあけがたのなかに
ぼんやりとしてはひつてきた
「黄いろな花こ おらもとるべがな」
たしかにとし子はあのあけがたは
まだこの世かいのゆめのなかにゐて
落葉の風につみかさねられた
野はらをひとりあるきながら
ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ
【現代語訳文 】
ほんとうに、その夢の一場面は、看病と悲しみに疲れて眠っていたおしげ子たちの明け方へ、ぼんやりと入り込んできた。「黄色い花を、私も摘もうかな」――たしかにトシ子は、あの夜明けにはまだこの世の夢の中にいたのだ。落ち葉が風に吹き寄せられ、幾重にも積もった野原を、たった一人で歩きながら、まるで誰かほかの人のことを話すように、静かにつぶやいていたのだ。

【原文】
そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
I'estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
やがてはそこに小さなプロペラのやうに
音をたてて飛んできたあたらしいともだちと
無心のとりのうたをうたひながら
たよりなくさまよつて行つたらうか
わたくしはどうしてもさう思はない
【現代語訳文 】
そしてトシ子は、そのまま寂しい林の一羽の鳥になったのだろうか。風の中に学生歌を聞きながら、水の流れる暗い森を、悲しく歌って飛んでいったのだろうか。やがて小さなプロペラのように羽音を立てて来た新しい仲間と、無心な鳥の歌をうたい、行くあてもなくさまよったのだろうか。けれど私は、どうしてもそうは思えない。トシ子の行った先は、そんな寂しい世界ではないはずだ。

【原文】
なぜ通信が許されないのか
許されてゐる そして私のうけとつた通信は
母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ
どうしてわたくしはさうなのをさうと思はないのだらう
【現代語訳文 】
なぜ、死者との通信は許されないのだろう。いや、ほんとうは許されているのかもしれない。そして私が受け取った知らせは、母が夏の看病の夜に見た夢と、まったく同じものだった。それなのに、なぜ私は、それを確かな通信だと素直に信じることができないのだろう。心では求めながら、疑いを捨てきれずにいる。

【原文】
それらひとのせかいのゆめはうすれ
あかつきの薔薇いろをそらにかんじ
あたらしくさはやかな感官をかんじ
日光のなかのけむりのやうな羅をかんじ
かがやいてほのかにわらひながら
はなやかな雲やつめたいにほひのあひだを
交錯するひかりの棒を過ぎり
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた
【現代語訳文 】
人の世の夢はしだいに薄れ、トシ子は暁の薔薇色を空に感じ、新しく澄んだ感覚を得た。日光の中には、煙のように透き通る薄衣が揺れている。彼女は輝き、ほのかにほほえみながら、華やかな雲と冷たい香りのあいだを進み、交差する光の筋を越えていった。そして私たちが「上」と呼ぶ、不思議な方向へ、その世界のありように驚きながら、大きく巡る風よりもさわやかに昇っていった。

【原文】
わたくしはその跡をさへたづねることができる
そこに碧い寂かな湖水の面をのぞみ
あまりにもそのたひらかさとかがやきと
未知な全反射の方法と
さめざめとひかりゆすれる樹の列を
ただしくうつすことをあやしみ
やがてはそれがおのづから研かれた
天の瑠璃の地面と知つてこゝろわななき
紐になつてながれるそらの楽音
また瓔珞やあやしいうすものをつけ
移らずしかもしづかにゆききする
巨きなすあしの生物たち
遠いほのかな記憶のなかの花のかをり
それらのなかにしづかに立つたらうか
【現代語訳文 】
私は、トシ子のたどった跡さえ追えるように思う。そこには青く静かな湖が広がり、その平らな輝きが、光に揺れる木々をあまりにも正しく映している。やがて、それが自然に磨かれた天の瑠璃の大地だと知り、心は震える。空の音楽がひも状に流れ、宝飾や薄衣をまとった大きな裸足の生き物たちが、静かに行き交っている。遠い記憶の花の香りに包まれ、トシ子はその中にひっそりと立っていたのだろうか。

【原文】
それともおれたちの声を聴かないのち
暗紅色の深くもわるいがらん洞と
意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
亜硫酸や笑気のにほひ
これらをそこに見るならば
あいつはその中にまつ青になつて立ち
立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち
(わたくしがいまごろこんなものを感ずることが
いつたいほんたうのことだらうか
わたくしといふものがこんなものをみることが
いつたいありうることだらうか
そしてほんたうにみてゐるのだ)と斯ういつてひとりなげくかもしれない……
【現代語訳文 】
それとも、私たちの声がもう届かなくなったあと、
暗い紅色に沈む、深く不気味な空洞や、
意識を持つ肉体が砕けるときの叫び、
亜硫酸や笑気のような異様な匂いを、
もし妹がそこで見たならば、
真っ青になって立ち尽くすだろう。
立っているのか、よろめいているのかもわからず、
頬に手を当て、夢そのもののように立ちながら、
「私が今、こんなものを感じているのは本当なのか。
私という存在が、こんな世界を見ることなどあり得るのか。
けれど私は、確かに見ている」
そう言って、ひとり嘆くのかもしれない。

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