56.『江戸小咄』「伊勢物語(いせものがたり)」
ある日、長屋の若い与太郎が、ご隠居の部屋を訪ねて言う。
「へぇ、伊勢物語ってのを読んでみたんですよ。なんだか、色っぽいことがいっぱい書いてあって……」
ご隠居は煙管をくゆらせながら笑い、「色っぽいだけじゃない、あれは“心”の話さ」と語る。

「昔の歌人ってのは、情のやりとりを“和歌”でやったんだ。返歌一つで恋が始まり、恋が終わる」
与太郎は目を輝かせ、「へぇ、じゃあ今で言や、手紙とかLINE(らいん)ってとこで?」
「そうさ、でも粋(いき)ってぇのは、返し方次第。相手の心を読むのが“江戸の伊勢物語”だよ」

その晩、与太郎は気になる長屋の娘に、一筆書いて差し出した。
「夕立に ぬれてもなおぞ 逢いたけれ この想いこそ まことなりけり」
娘は頬を赤らめつつも、翌朝には返歌をひとつ。
「夜もすがら 傘なきままに 待つ人の 心も知らで 夢となりけり」

ご隠居にそれを見せると、にやりと笑って言う。
「うまい返しじゃねぇか。こりゃ、今夜あたり、あの娘も帳(とばり)を下ろして待ってるかもな」
与太郎は照れながら、「へぇ、まるで俺が“在五中将”にでもなった気分ですや」
――江戸の町では、恋も粋も、和歌ひとつで始まることがあったのでござんす。

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