『宮沢賢治の詩と心象風景』第五回 「青森挽歌Ⅱ 妹の死を思い起こす」
【原文】
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じようとするときは
たれだつてみんなぐるぐるする
【現語訳文 】
考えなければならないことは、どれほど苦しくても考え抜かなければならない。トシ子は、私たちが「死」と呼ぶ道を通り、その先のどこへ行ったのか、もう誰にも分からない。それは、この世界の東西南北や上下では測れない場所なのだ。目にも見えず、手にも触れられない方向を感じようとすれば、誰の心も行き場を失い、ただめまいのようにぐるぐる回ってしまう。

【原文】
「耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい」
さう甘えるやうに言つてから
たしかにあいつはじぶんのまはりの
眼にははつきりみえてゐる
なつかしいひとたちの声をきかなかつた
にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
【現語訳文 】
「耳がごうごう鳴って、何も聞こえなくなったよ」――そう甘えるように言ったあと、トシ子は、目の前にいる懐かしい人々の声を、もう聞かなかった。やがて呼吸も脈も止まり、私が駆けつけた時、あの澄んだ瞳だけが、何かを探すように空しく動いていた。しかし、その目はもう二度と、私たちの世界を見なかった。そのあと彼女は何を感じたのだろう。まだこの世の幻を見て、この世の声を、遠く聞いていたのだろうか。

【原文】
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風 すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
白い尖つたあごや頬がゆすれて
ちひさいときよくおどけたときにしたやうな
あんな偶然な顔つきにみえた
けれどもたしかにうなづいた
「ヘツケル博士!
わたくしがそのありがたい証明の
任にあたつてもよろしうございます」
【現語訳文 】
私はトシ子の耳もとで、遠い世界から声を集めるように、空や愛、りんごや風、あらゆる力の楽しい源、すべてのものが一つへ帰るという尊い生命の名を、力の限り叫んだ。そのとき彼女は、二度うなずくように息をした。白く尖ったあごと頬がかすかに揺れ、幼いころ、ふざけた時に見せたような表情になった。偶然だったのかもしれない。それでも、確かにうなずいたのだ。ヘッケル博士よ、その尊い証明を、私が引き受けてもよいのです。

【原文】
仮睡硅酸の雲のなかから
凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は……
(宗谷海峡を越える晩は
わたくしは夜どほし甲板に立ち
あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
からだはけがれたねがひにみたし
そしてわたくしはほんたうに挑戦しよう)
【現語訳文 】
まどろみの中、硅酸の雲の奥から、身も凍るような卑怯な叫び声が聞こえてくる。宗谷海峡を越える夜、私は一晩じゅう甲板に立つだろう。考える力も失った頭に、冷たく湿った霧をかぶり、胸の内には濁った願いを抱えたまま。それでも私は逃げずに、悲しみと死の謎へ、ほんとうに挑みかかろう。

【原文】
たしかにあのときはうなづいたのだ
そしてあんなにつぎのあさまで
胸がほとつてゐたくらゐだから
わたくしたちが死んだといつて泣いたあと
とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ
ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで
ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない
そしてわたくしはそれらのしづかな夢幻が
つぎのせかいへつゞくため
明るいいゝ匂のするものだつたことを
どんなにねがふかわからない
【現語訳文 】
あのとき、トシ子はたしかにうなずいた。次の朝まで胸にぬくもりが残っていたのだから、私たちが「死んだ」と泣いたあとも、まだこの世界の体をどこかで感じていたのかもしれない。熱や痛みから解き放たれた、ほのかな眠りの中で、今ここにあるような静かな夢を見ていたのだろうか。その夢が次の世界へ続く道であり、明るく、よい香りに満ちたものであったことを、私はただひたすら願わずにはいられない。

このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。