語り継ぐこころ/日本おとぎ噺・江戸小咄・古典落語・笑いの匠たち

日本おとぎ噺・江戸小咄、古典落語・笑いの匠たちのダイジェスト版と挿絵です。たまに、私の与太話が入ります。 文も挿絵もChatGPTが作っています。   よかったら ★nice! をポチット押してね。

13.『江戸小咄』「御髭(おひげ)」

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江戸の町、浅草の裏長屋に住む与兵衛(よへえ)は、年の頃は四十手前、独り身で、毎朝ていねいに髭(ひげ)を整えるのが日課という、ちょいと小粋な男である。町内では「髭の与兵衛」として親しまれ、子どもたちにも慕われていた。そんな彼に、ご隠居が声をかけた。
「与兵衛さん、その髭、どうしてそんなに見事なんで?」
「へい、父親譲りでございまして…」


与兵衛の父は、元は旗本の家来。立派な髭を持ち、常に身なりを正していたという。与兵衛は、貧乏長屋暮らしになっても父の誇りを胸に、髭だけは毎朝丁寧に整えていた。
「人は着物で見栄を張るが、拙者はこの髭でございます」と、笑いながら話す与兵衛。その律儀な暮らしぶりは、町の連中にも一目置かれていた。


ある日、町に火事が起き、与兵衛の長屋も焼けてしまう。皆が慌てふためくなか、与兵衛は火の手を逃れながらも、手鏡と髭剃り道具だけは大切に懐に抱えていた。後日、ご隠居が問うた。
「命からがら逃げる時に、それかい?」
与兵衛は照れながらも言う。
「他は失せても、御髭ひとつで心がしゃんとしますんで…」


やがて長屋が建て直され、皆がそれぞれの日常に戻っていった。与兵衛も仮住まいの庵で、相変わらず毎朝髭を整え続けていた。
「お武家じゃなくとも、身だしなみは心の鏡です」と呟く姿に、町の人々も思わず笑顔になる。
――江戸の町には、髭ひとつに誇りをかける男もいる。そんな粋な心意気が、今日もそよ風に揺れている。

29.日本おとぎ噺 「初夢長者」

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昔々、貧しいが心優しい男が村に住んでいた。元旦の夜、男は枕の下に七福神の絵を敷いて眠ると、不思議な夢を見た。夢の中で白い着物を着た老人が現れ、「江戸の橋のたもとに行け。そこで運を得る」と告げた。目覚めた男は、その夢をただの寝言とは思わず、さっそく旅の支度を始めた。



男は江戸へ向かい、橋のたもとに立って人の行き交いをじっと眺めていた。昼も夜も、男は誰にも声をかけず、ただ夢を信じて橋のそばに立ち続けた。三日目、通りがかった商人が不

思議に思い、「何をしておる」と男に声をかける。男は夢のことを正直に話すと、商人は大笑いして言った。「ばかばかしい。わしも夢で、村の竹やぶの下に宝が埋まっていると言われたが、そんなもの信じるか」



男は商人の夢の話に驚く。自分の村の竹やぶはまさしく自分の家の裏にある場所だった。男は橋を離れ、急いで村へ帰る。夜のうちに竹やぶを掘ると、なんと大きな壺が埋まっており、中には金銀がぎっしり詰まっていた。夢の言葉は、他人の口を借りて真実を教えてくれたのだった。



男はその金で村に立派な家を建て、困っている人々に分け与え、村中に慕われる人物となった。人々は彼を「初夢長者」と呼び、初夢を大切にするようになったという――。正直に生き、夢を信じる心が、幸運を引き寄せたのである。


『粋の極み ・笑いの匠たち』10~12

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10.古今亭志ん朝(ここんていしんちょう)「3代目」

生年月日:昭和13年(1938年)3月10日

没年月日:平成13年(2001年)10月1日

享年:64歳


古今亭志ん朝(ここんてい しんちょう)三代目は、昭和・平成を代表する江戸落語の名人で、本名は美濃部強次。父は昭和の大名人・古今亭志ん生。明るく歯切れの良い口調、品のある語り口で、滑稽噺から人情噺まで自在にこなし、多くのファンを魅了した。特に「文七元結」「芝浜」「火焔太鼓」などの名演は今も語り継がれる。寄席でもテレビでも活躍しながら、古典落語の芸を丁寧に継承。弟子を取らず、芸一筋に生きた孤高の噺家でもある。2001年、膵臓がんのため64歳で逝去。早すぎる死が惜しまれたが、その録音・映像は今なお新たな落語ファンを生み続けている。


11.古今亭志ん生(ここんてい しんしょう)「5代目」

生年月日明治23年(1890年)6月28日

没年月日昭和48年(1973年)9月13日

享年:84歳


5代目古今亭志ん生(ここんてい しんしょう)は、明治から昭和にかけて活躍した伝説的な落語家で、本名は美濃部孝蔵。破天荒な私生活と天衣無縫な高座で知られ、「芸と生活が渾然一体」と評された。戦前・戦中の苦難を経て、戦後にはラジオ出演などで一躍国民的落語家となり、その飄々とした語り口と独特の間で多くの聴衆を魅了した。代表作に「火焔太鼓」「唐茄子屋政談」などがあり、滑稽と哀愁を同居させた語りが真骨頂。晩年は脳出血の後遺症により座っての口演となったが、なお多くのファンを持ち続けた。息子に10代目金原亭馬生、3代目古今亭志ん朝がいる。名人と称され、今なお語り継がれる名落語家である。


12.古今亭志ん馬(ここんていしんば)「7代目」

生年月日昭和33年(1958年)3月3日

没年月日平成25年(2013年)10月7日

享年:55歳

七代目 古今亭志ん馬師匠(本名∶吉野 惠一 )は、東京都で生まれました。昭和56年(1981年)に六代目古今亭志ん馬に入門し、師匠の死去後は古今亭志ん朝門下に移籍。平成9年(1997年)に真打に昇進し、名跡である七代目志ん馬を襲名しました。色気のある噺を得意とし、「明烏」などで知られました。平成25年(2013年)10月7日、胃がんのため東京都内の病院で逝去されました。享年55歳でした。 師匠の芸風は、江戸の粋と洒脱さを感じさせるもので、多くのファンに愛されました。その早すぎる死は、落語界にとって大きな損失でした。師匠の遺した芸は、今も多くの人々の心に生き続けています。

(4.)「私の与太話」「バス旅行」

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久しぶりに家内とパックのバス旅行へ出かけました。行き先は大河ドラマ館と温泉地。パンフレットには歴史ロマンと名湯の文字が並び、出発前から期待はふくらみます。バスの中では「どんな展示だろう」「温泉は広いかな」と話し合い、まるで遠足前の子供のような気分。年を重ねても、旅の前のわくわくは変わらないものでございます。



ところが大河ドラマ館へ入ると、展示は思ったよりこぢんまり。順路に沿って歩いているうちに、気がつけば出口が見えてきました。時計を見るとわずか五分ほど。「もう終わり?」と夫婦で顔を見合わせます。これまで各地のドラマ館を見てきましたが、これほど短時間で見終わったのは初めて。少々拍子抜けいたしました。.



それでも旅館が良ければ旅は成功です。部屋は広く、料理も地元の味が並び大満足。ところが楽しみにしていた大浴場へ行くと、どこか昔の町の風呂屋のような造りで、温泉旅館らしい華やかさがありません。しかも男性用には露天風呂がなく、女性用だけにあるとのこと。別に男性専用の露天風呂があるとのこと、翌朝、期待して行ってみたら、洗い場と大きなバスタブみたいなものがぽつんと一つ。せっかくのいい温質なのに、何とも惜しい気がいたしました。



帰りのバスで家内に「今回の旅はどうだった?」と聞かれました。私は少し考えてから答えます。「大河ドラマ館は五分で終わり、露天風呂は五歩で一周できたなあ。」すると家内が笑って、「あなたは文句ばかり言うけれど、料理は全部平らげていたじゃないの。」なるほど、結局いちばん満足したのは温泉でもドラマ館でもなく、私の胃袋だったようでございます。



おまけ きれいなところでした。

28.日本おとぎ噺 「うばすて山」

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昔々、ある村に、年老いた人々を捨てなければならぬという悲しい掟がありました。村では口減らしのため、六十を超えた親は山へ捨てられる運命でした。
ある日、素朴な心を持つ一人の青年が、病を抱える年老いた母を背負い、涙ながらに山道を登っていきました。母は道中、「ここを右に曲がると村に戻れる」とか「この木を越えたら湧き水がある」と、息子が戻れるよう道を教え続けました。



山に着いた青年は、母を捨てることができず、泣きながら「すまぬ、母上」と謝りました。けれども母は静かにうなずき、微笑んで「よくここまで背負ってくれた。ありがとな」と言いました。
しかし青年の心は張り裂けそうで、とうとう決心して、母を連れて山を下り、自宅の納屋に隠してこっそりと世話をすることにしたのです。



その後、村では殿様から難題が出されます。「灰で縄をなえよ」「一本の棒で曲がり角を作れ」など、どれも村人たちには解けぬ謎ばかり。村全体が困り果てました。
青年はこっそり母に相談します。母は柔らかな声で答えを教えてくれ、その知恵によって村人たちは難題を次々と解決し、殿様も感心します。



やがて殿様は「この村には、なぜこんなに賢い者がいるのか」と尋ね、青年はすべてを正直に話しました。殿様は深く感動し、「年寄りを捨てるなど、とんでもない。以後その掟を廃止せよ」と命じました。
こうして村には再び親子の笑顔が戻り、老いも若きも支え合って生きる世の中となったのです。