13.『江戸小咄』「御髭(おひげ)」
江戸の町、浅草の裏長屋に住む与兵衛(よへえ)は、年の頃は四十手前、独り身で、毎朝ていねいに髭(ひげ)を整えるのが日課という、ちょいと小粋な男である。町内では「髭の与兵衛」として親しまれ、子どもたちにも慕われていた。そんな彼に、ご隠居が声をかけた。
「与兵衛さん、その髭、どうしてそんなに見事なんで?」
「へい、父親譲りでございまして…」

与兵衛の父は、元は旗本の家来。立派な髭を持ち、常に身なりを正していたという。与兵衛は、貧乏長屋暮らしになっても父の誇りを胸に、髭だけは毎朝丁寧に整えていた。
「人は着物で見栄を張るが、拙者はこの髭でございます」と、笑いながら話す与兵衛。その律儀な暮らしぶりは、町の連中にも一目置かれていた。

ある日、町に火事が起き、与兵衛の長屋も焼けてしまう。皆が慌てふためくなか、与兵衛は火の手を逃れながらも、手鏡と髭剃り道具だけは大切に懐に抱えていた。後日、ご隠居が問うた。
「命からがら逃げる時に、それかい?」
与兵衛は照れながらも言う。
「他は失せても、御髭ひとつで心がしゃんとしますんで…」

やがて長屋が建て直され、皆がそれぞれの日常に戻っていった。与兵衛も仮住まいの庵で、相変わらず毎朝髭を整え続けていた。
「お武家じゃなくとも、身だしなみは心の鏡です」と呟く姿に、町の人々も思わず笑顔になる。
――江戸の町には、髭ひとつに誇りをかける男もいる。そんな粋な心意気が、今日もそよ風に揺れている。

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