12.『江戸小咄』「鶉(うずら)」
江戸の町は春の宵、町角に立つは長屋住まいの八五郎(はちごろう)。日がな一日を無為に過ごし、のんびり鼻をほじっていたところを、向こうからふらりと現れたのは、隣町で評判の物知りご隠居。
「おう八、何をしてる?」
「へい、ちょいと…鼻でもいじっておりました」
江戸の市井に生きる男の、なんとも気の抜けた始まりである。

それを聞いたご隠居、にやりと笑って一席講じはじめる。
「八、お前さん“鼻捻”って知ってるかい? 江戸じゃな、お武家の中にゃこれを“忍びの技”に使ったって話がある」
八五郎はぽかんと口をあけ、「鼻を捻るのが技で?」と笑うが、ご隠居はさらに続ける。
「鼻の穴をぐっと指で捻ることで、息を殺す修行だとよ。心頭滅却とはよく言ったものじゃ」
そんな話を聞きながら、八五郎は妙に感心しきりで、ちょいと鼻をつまんでみせる。

その日の晩、八五郎は酒に酔って、近所の火の見櫓の下で寝込んでしまう。ところが夜半、見回りの町人に起こされると、八五郎は酔ったままこう言い張った。
「おいらは“忍び”の修行中でござんす。鼻を捻って気を整えていたとこで…」
町人たちはあきれて顔を見合わせ、「そんな寝小便たれが忍びかい」と大笑い。あれよあれよと話は広まり、長屋中の笑い者となってしまった。

翌朝、頭をかきながらご隠居の元へ出向いた八五郎。昨夜の出来事を語ると、ご隠居は腹を抱えて笑ったあと、こう言った。
「八よ、鼻は捻るもんじゃねぇ、恥はひねくれるほど味が出る。江戸の風は、そんなお前さんにもやさしいぜ」
八五郎は赤面しつつも、どこか憎めぬ顔で「へへ」と笑う。江戸の町は、今日も陽気な風に包まれている。

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