10.『江戸小咄』「馬鹿娘(ばかむすめ)」
江戸は下町、夕暮れどき。ある商家に、ちょいとばかしとろい娘がおりまして、近所の者は「いい娘だけど、ちとぬけてる」と噂していた。年頃も過ぎたが、見合いの話は来ては立ち消え。親も頭を悩ませていた。

ある日、町内で火事があり、人々は大騒ぎ。娘は「火事だ!火事だ!」と叫びながら、店先にあった大福帳を抱えて表へ飛び出す。見れば、火元は遠く、騒ぐほどでもなし。近所の者が「あんた、何で大福帳なんか持ち出したのさ?」と訊くと、「お金より、これが大事だってお父っつぁんが言ってたもんで」と、にっこり。

それを聞いた父親、初めは呆れ顔。しかし次第に目を潤ませ、「…たしかに、帳面がなけりゃ商いは立たぬ」と一言。娘の素直な心に、周囲も思わずホロリ。馬鹿と呼ばれた娘の行いに、人情の機微がにじんだ瞬間であった。

この話が広まると、「そんな娘ならうちに嫁に」と縁談がぽつぽつと舞い込み始める。やがて、町人の若旦那と祝言を挙げ、今では立派な女房に。――江戸の町には、馬鹿に見えても真心で光る娘もおる、という話でござんす。

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