「私の与太話」「音楽」
近ごろ評判のミセスグリーンアップルを聴いていて、どうも私は首をかしげた。声はよい。勢いもある。若い人が夢中になるのも分かる。だが、歌詞を耳で追っていると、日本語の言葉の流れと音の流れが、どうも別々の道を歩いているように感じるのである。

日本語には本来、言葉のまとまりや助詞の呼吸がある。「私は今日ここへ来た」と言えば、自然に重い所と軽い所が決まる。ところが今のポップスでは、普通なら軽く流す一音を高く伸ばしたり、言葉の途中で切ったりする。歌詞が文章ではなく、音符の荷物になっているように聞こえる。

もちろん、それが下手というわけではない。むしろ声を楽器のように使い、感情を一気に跳ね上げる技術は大したものだ。若い耳には、それが新しく、気持ちよく響くのだろう。ただ、歌詞を「読むように聴く」世代には、どうしても日本語が息切れしているように思えてしまう。

昔の歌謡曲やフォークは、歌詞が畳の上をすっと歩いていた。今の歌は、歌詞がトランポリンで跳ねている。ミセスの音楽は華やかで力強いが、日本語の流れを大事に聴く私には、少々忙しい。ーーー歌詞が曲に乗っているのではない。曲に振り落とされまいと、必死にしがみついているのであるーーー。

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