31.『江戸小咄』「上り兜(あがりかぶと)」
春の陽気な日和、上野の山では花見客でにぎわっていた。町人たちも晴れ着に身を包み、酒肴を広げて浮かれるなか、一人の浪人がぼろぼろの羽織をまとい、無言で人波をかき分けて歩いていた。肩には古びた風呂敷包み、腰には刀一本。子供たちが「お侍だ」と囁くが、その顔つきはどこか冴えず、場にそぐわぬ寂しさをまとっていた。

その浪人が立ち止まったのは、町の兜職人・宗八(そうはち)の店先だった。彼はかつて名のある武家に仕えていたが、主家が断絶し浪々の身。包みの中身を取り出すと、それは金色に輝く見事な「上り兜」。戦で名を馳せた先祖伝来の品である。浪人は静かに言う。「売りとうございます」。宗八は一瞬驚きつつも、武士の面目を傷つけぬよう丁重に値をつけ、浪人もまた黙してうなずく。

その夜、宗八は近所の酒屋で浪人と偶然再会する。酒を酌み交わすうちに、浪人はぽつりぽつりと語り出す。「この兜、戦で折れぬよう願かけして…それが我が家の“上り兜”でした」。だが、今や戦もなく、家も断絶し、自らも食うに困る日々。涙は見せず、ただ杯を空けて笑う姿に、宗八は胸を締めつけられる。江戸の町のどこかで、そんな過去を背負う男たちが静かに暮らしている――それが時代というものなのかもしれぬ。

後日、その兜は宗八の店先に飾られた。「非売品 名工之作」と札が下げられ、誰も値をつけられぬようになっていた。通りすがりの客が問えば、宗八は笑って答える。「江戸にも、こんな誇りがあったんでござんす」と。
――誇りとは、金で量るものでなく、時を超えて人の心に残るもの。上り兜は、静かに春の日差しを受けながら、江戸の片隅で今日も輝いていた。

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