45.『江戸小咄』「十字(じゅうのじ)」
ある日、長屋の与太郎がご隠居のところへ駆け込んできた。
「隣の爺さんが、毎晩“十字を切ってる”んですよ。こえぇったらありゃしねぇ」
驚くご隠居、「十字だと? 江戸の町で、異人かなんかか?」と眉をひそめる。

与太郎いわく、その爺さん、夜な夜な手を合わせては胸の前で十文字を描き、何やら呟いているという。「こちとら江戸っ子だ。十字なんざ見たこともねぇ」
ご隠居も興味津々、「よし、ちょっくら様子を見てくるとするか」と二人して夜の長屋を覗きに出かけた。

障子の隙間から覗くと、確かに爺さんは手を合わせ、胸の前で「じゅうのじ」を切っていた。
だが耳をすますと、こうつぶやいている。「右膝よ、治れ……左膝も……ついでに腰もな……」
どうやらこれは、祈りでも異国の作法でもなく、**自分の体の痛みを抑えるための“おまじない”**だったのだ。

与太郎は拍子抜けして大笑い。「なーんだ、十字じゃなくて“十ヶ所の痛み”ってわけか」
ご隠居も吹き出して、「やれやれ、江戸の十字は、キリストより年寄りの膝に効くってことか」
――江戸の町には、信仰も笑いも、みな肩の力を抜いて、暮らしの中に溶け込んでいたのでござんす。

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