「私の与太話」「映画・国宝をみて」
映画『国宝』を見た。まず最初に申し上げたいのは、主演お二人の演技に対する率直な賞賛である。芸に取り憑かれた者の執念、栄光と挫折の苦しみ、人間の業とも言うべき感情の揺れを見事に表現していた。映像も美しく、舞台場面には思わず息をのむ迫力があった。一本の映画として十分に見応えがあり、最後まで引き込まれたことは認めなければならない。

しかし感動と同時に、どうしても引っかかる部分もあった。物語の中心となる刺青をしたやくざの若者が、類いまれな才能を見出されて歌舞伎の世界へ入っていく設定である。もちろん映画はフィクションだから自由な発想は許される。しかし伝統芸能の世界には独自のしきたりや世間体があり、現実にはいくら才能があっても簡単に受け入れられるものではないだろう。才能だけで越えられない壁があるからこそ、歌舞伎の世界は特殊なのである。

さらに大名跡を背負う主役が倒れた後の展開にも違和感を覚えた。本来なら代役にはまず実子が立つ。たとえ芸が未熟でも、家を継ぐ者として舞台に立たせるのが歌舞伎の論理ではないか。ところが映画では部屋住の人物がその座を得る。劇としては盛り上がるが、現実味には欠ける。また、公演を成立させるために奔走する興行者や後援者の存在もほとんど描かれない。華やかな舞台の裏には多くの人々の思惑と責任があるはずだが、その部分は都合よく省略されているように見えた。

考えてみれば、この作品は歌舞伎界の記録映画ではなく、芸に人生を捧げた男たちの宿命を描く物語なのであろう。現実の制度や慣習よりも、才能と情熱が勝つ世界を描きたかったのだと思う。だから細かな矛盾をあげつらうのは野暮なのかもしれない。それでも私には最後まで納得しきれない部分が残った。もともと私は女形が好きではない。女形は女性を演じているというより、「女形」という独自の様式を演じているように見えるからだ。そんな偏屈な見方をする人間が歌舞伎映画を論じているのだから、最初から公平な観客ではなかったのかもしれない。
オチ:
結局のところ、『国宝』の最大のフィクションは、やくざの若者が歌舞伎役者になったことではない。女形嫌いの私が最後まで席を立たず、しっかり感動してしまったことの方である。

このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。