70.『江戸小咄』「百足(むかで)」
長屋の一角、物知りで通るご隠居のもとに、ある日ひとりの町人が駆け込んできた。
「ご隠居! 百足(むかで)に噛まれちまいまして、足が腫れてしょうがねぇ」
聞けば、夜中に草履を履こうとしたところ、草履の中にいた百足にかまれたのだという。
「こりゃ毒が回るかもしれねぇ……どうすりゃいいんで?」と町人は青い顔。

ご隠居は煙管をくゆらせながら、ゆるりと話し出した。
「むかし武士が戦で百足に噛まれたとき、毒を吸い出して酒で流したらしい。お前さんも真似してみな」
町人は感心しつつ、「さすがご隠居、博識でござんす」と、すぐさま薬湯をこしらえ、草鞋を焼いて供養までしたという。

数日後、またその町人が現れ、ご隠居に頭を下げる。
「いやぁ、あのときのご教示、ありがたくて。でも……」
「でも?」
「おかげさまで腫れは引いたんですが、今度は嫁が“あたしの草履にも何かいそうで怖い”って、下駄箱をひっくり返して掃除を始めちまいまして」
ご隠居はくっくと笑いながら、「そりゃ“むかで掃除”ってやつだな」

最後に町人がぽつりとこぼす。
「草履の中も、嫁の小言も、どっちも“踏んだり蹴ったり”でして……」
それを聞いたご隠居、にやりと笑って一言。
「百足ってのは、足が多い分、話の落ちもようけぇあるってこったな」
――江戸の町では、毒にも薬にもなるのが“知恵と洒落”でござんす。
