57.『江戸小咄』「通小町(かよいこまち)」
江戸の町にも、小町通いとあだ名される若い娘がおりました。年は十七八、色白で、きりっとした顔立ち。毎朝、紅差しを軽くつけ、品よく着こなした小紋姿で、裏長屋からそっと出てまいります。向かう先は決まって、堀向こうの貸本屋。誰とも口を利かず、本を借りては静かに帰る。その立ち居振る舞いが粋だと、町内の者たちは彼女を「通(かよい)の小町」と呼ぶようになりました。

ある日、ご隠居が若い者に問います。「あの娘、何を読むんだろうね」。すると与太郎が言うには、「ほら、『源氏物語』でさァ。夕顔の巻ばかり何度も借りてるって話ですぜ」。それを聞いたご隠居、ふと目を細めて言う。「ほう、じゃああの娘、恋の病かもしれねぇな。昔の小町も、そんな風に通ったもんさ」と、遠い目で呟くのでした。

やがて、娘の姿を見かけなくなります。雨の日も風の日も決して欠かさなかった通いが、ぷつりと途絶えたのです。町内ではさまざまな噂が立ちました。「恋でも破れたのか」「実家に戻ったのか」……そんなある夕暮れ、ご隠居がふらりと堀端を歩いていると、船宿の軒先でその娘を見かけます。なんと、男に扮して船頭の手伝いをしているではありませんか。

娘はご隠居に気づくと、ほほえみながら一言。「読んでばかりじゃ、女は浮かばれませんからね。今度は自分の物語、始めてみようかと」――
ご隠居はにやりと笑い、「こりゃ、ほんとの“通小町”だ」とうなずいた。
――江戸の町には、物語を読む女も、物語を生きる女も、それぞれの粋をまとっていたので
ござんす。

このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。