『宮沢賢治の詩と心象風景』第六回「小岩井農場」1話 汽車を降りて春の野へ/全12話
【原文】
わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた
そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ
けれどももつとはやいひとはある
化学の並川さんによく肖たひとだ
あのオリーブのせびろなどは
そつくりおとなしい農学士だ
さつき盛岡のていしやばでも
たしかにわたくしはさうおもつてゐた
このひとが砂糖水のなかの
つめたくあかるい待合室から
ひとあしでるとき……わたくしもでる
馬車がいちだいたつてゐる
馭者がひとことなにかいふ
黒塗りのすてきな馬車だ
光沢消しだ
馬も上等のハツクニー
このひとはかすかにうなづき
それからじぶんといふ小さな荷物を
載つけるといふ気軽なふうで
馬車にのぼつてこしかける
(わづかの光の交錯だ)
その陽のあたつたせなかが
すこし屈んでしんとしてゐる
【現代語訳文】
私はずいぶん素早く汽車を降りた。
その勢いで、雲までぎらりと光ったようだった。
けれど、もっと早い人がいる。
化学の並川さんによく似た、オリーブ色の背広の、物静かな農学士だ。
盛岡駅でも、たしかにそう思った。
冷たく明るい待合室を彼が一歩出ると、私も続く。
黒塗りの立派な馬車と、上等なハックニー種の馬。
彼は軽くうなずき、自分という小さな荷物を載せるように気軽く座った。
日の当たる背中は少しかがみ、静まり返っていた。

【原文】
わたくしはあるいて馬と並ぶ
これはあるいは客馬車だ
どうも農場のらしくない
わたくしにも乗れといへばいい
馭者がよこから呼べばいい
乗らなくたつていゝのだが
これから五里もあるくのだし
くらかけ山の下あたりで
ゆつくり時間もほしいのだ
あすこなら空気もひどく明瞭で
樹でも艸でもみんな幻燈だ
もちろんおきなぐさも咲いてゐるし
野はらは黒ぶだう酒のコツプもならべて
わたくしを款待するだらう
そこでゆつくりとどまるために
本部まででも乗つた方がいい
今日ならわたくしだつて
馬車に乗れないわけではない
(あいまいな思惟の蛍光
きつといつでもかうなのだ)
もう馬車がうごいてゐる
(これがじつにいゝことだ
どうしようか考へてゐるひまに
それが過ぎて滅くなるといふこと)
ひらつとわたくしを通り越す
みちはまつ黒の腐植土で
雨あがりだし弾力もある
馬はピンと耳を立て
その端は向ふの青い光に尖り
いかにもきさくに馳けて行く
【現代語訳文】
私は歩きながら馬車と並んで進む。農場の馬車ではなく、客を乗せるものらしい。馭者が「乗りませんか」と声をかければよいのにと思う。これから五里も歩くのだし、鞍掛山のふもとでは、澄みきった空気の中、木も草も幻灯のように輝き、おきなぐさも咲いているだろう。野原は黒ぶどう酒の杯を並べ、私を迎えてくれるに違いない。だが迷っているうちに、馬車はひらりと追い越していった。それでよい。考えている間に、物事が過ぎ去って消えるのは、いつものことなのだ。雨上がりの黒い土を蹴り、馬は青い光へ耳を尖らせ、軽やかに駆けてゆく。

【原文】
うしろからはもうたれも来ないのか
つつましく肩をすぼめた停車場と
新開地風の飲食店
ガラス障子はありふれてでこぼこ
わらぢや sun-maid のから函や
夏みかんのあかるいにほひ
汽車からおりたひとたちは
さつきたくさんあつたのだが
みんな丘かげの茶褐部落や
繋あたりへ往くらしい
西にまがつて見えなくなつた
いまわたくしは歩測のときのやう
しんかい地ふうのたてものは
みんなうしろに片附けた
そしてこここそ畑になつてゐる
黒馬が二ひき汗でぬれ
犁をひいて往つたりきたりする
ひはいろのやはらかな山のこつちがはだ
山ではふしぎに風がふいてゐる
嫩葉がさまざまにひるがへる
ずうつと遠くのくらいところでは
鶯もごろごろ啼いてゐる
その透明な群青のうぐひすが
(ほんたうの鶯の方はドイツ読本の
ハンスがうぐひすでないよと云つた)
【現代語訳文】
振り返っても、もう誰も来ない。肩をすぼめたような小さな停車場と、新開地めいた飲食店。ゆがんだガラス障子、わらじ、サン・メイドの空箱、夏みかんの明るい香り。汽車を降りた人々は、丘陰の集落や繋の方へ消えていった。私は距離を測るように歩き、町外れの建物を後ろへ片づける。前には畑が開け、汗に濡れた二頭の黒馬が犁を引く。灰色の柔らかな山肌では、風に若葉がひるがえり、遠い暗がりから、透明な群青色の鶯の声が、ころころと転がってくる。

【原文】
馬車はずんずん遠くなる
大きくゆれるしはねあがる
紳士もかろくはねあがる
このひとはもうよほど世間をわたり
いまは青ぐろいふちのやうなとこへ
すましてこしかけてゐるひとなのだ
そしてずんずん遠くなる
はたけの馬は二ひき
ひとはふたりで赤い
雲に濾された日光のために
いよいよあかく灼けてゐる
冬にきたときとはまるでべつだ
みんなすつかり変つてゐる
変つたとはいへそれは雪が往き
雲が展けてつちが呼吸し
幹や芽のなかに燐光や樹液がながれ
あをじろい春になつただけだ
それよりもこんなせはしい心象の明滅をつらね
すみやかなすみやかな万法流転のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう
ほんたうにこのみちをこの前行くときは
空気がひどく稠密で
つめたくそしてあかる過ぎた
今日は七つ森はいちめんの枯草
松木がをかしな緑褐に
丘のうしろとふもとに生えて
大へん陰欝にふるびて見える
【現代語訳文】
馬車は大きく揺れ、紳士を軽く跳ね上げながら、しだいに遠ざかってゆく。畑では二頭の馬と二人の働く人が、雲越しの日差しに赤く焼けている。冬に来たときとは、すべてが違って見える。雪が消え、雲が開き、土が息をし、木の幹や芽に樹液が流れ、青白い春が訪れたのだ。しかし驚くべきは、せわしく明滅する心の中で、移り変わる世界のただ中に、小岩井の野原や牧場が確かな姿を次々と現すことだ。以前は冷たく澄みすぎていた空気も、今日は枯草と緑褐色の松に覆われ、七つ森は古びて沈んで見える。
