50.『江戸小咄』「芳町(よしちょう)」
ある晩、与太郎がふらりと芳町(吉原の南、芸者の町)を歩いていると、どこからか三味線の音と、粋な唄声が聞こえてくる。「へぇ、こりゃまた風情のあるとこで――」と、思わず足を止める与太郎。すると、小間物屋の前で立ち話していたご隠居が声をかけてくる。「お前さん、まさか覗く気じゃあるめぇな」

「いえ、あっしはただ音に誘われただけで……」と焦る与太郎。ご隠居はくすっと笑い、「ここいらはな、色じゃなく、音と粋で客をもてなす町だ」と語る。芸者衆が出入りする店から、ほのかに灯る灯りと、すだれ越しの影が揺れる。二人は並んで歩きながら、江戸の“通人(つうじん)”の遊び方について話をする。

道すがら、若い芸者とすれ違い、与太郎は目を奪われる。思わず「きれいなお姉さんですねぇ」と口にすると、ご隠居は扇子で軽く頭を叩く。「“きれい”じゃねぇ、“粋(いき)”って言うんだよ。粋はな、見た目だけじゃなく、気遣いと間合いで決まるのさ」――すると、その芸者がふと立ち止まり、にこりと微笑んで、「お褒めいただき、嬉しゅうございます」と一言。与太郎、赤面。

その夜、長屋に戻った与太郎は、ぽつりとつぶやく。「芳町ってぇのは、色じゃなく、言葉と間合いで人を酔わせる町でさぁ」。ご隠居がにやりと笑って答える。「江戸じゃ、艶も風情も“粋”のひとつ。気取らずに、でも心得は忘れずにな」
――江戸の夜には、恋と芸とがすだれ越しに揺れていたのでござんす。

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