29.『江戸小咄』「名所知(めいしょしり)」
ある日、町のご隠居が若い衆に話しかける。
「江戸にも名所ってぇのがいろいろあるが、さて、どこが一番粋だと思う?」
若い衆の与太郎が答える。
「そりゃぁ、吉原ですかねぇ。にぎやかで、花も咲いてて、夢のような所で――」

それを聞いて、ご隠居はふむと頷くも、眉をひそめる。
「そりゃまあ、華やかさはあるがな。名所ってのはな、もっと心に残るもんさ。春の上野、夏の隅田、秋の小石川、冬の根岸――四季折々の味わいがある」
与太郎はきょとんとしながらも、「へぇ、でもどこも女っ気がないような」と呟く。

ご隠居は笑いながら言う。
「馬鹿だねぇ、おめぇ。名所ってのはな、眺めてよし、歩いてよし、そっと胸のうちにしまっておけるもんさ。見せびらかすもんじゃねぇ。たとえば、夕暮れの深川、雨上がりの品川――あれこそ、粋な江戸の名所だ」
与太郎は首をかしげ、「でも、そんなとこ、誰も案内してくれませんよ」

そのとき、ご隠居がにやりと笑って、扇子をくるり。
「だからこそ、通(つう)ってぇのがいるのさ。名所を知るは、町を知るってこと。江戸っ子たる者、どこにでも風情を見出してこそ、一人前ってもんさ」
――江戸の町には、誰にも教えられぬ“名所”がある。
それを見つける心が、粋のはじまりなのでござんす。

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